那覇手 剛柔流


【左写真】東恩納寛量先生   【右写真】宮城長順先生と許田重発先生

剛柔流の系譜は久米村を中心に継承された那覇手の系統を引くものである。それを具体的に示しているのが1867年に行われた「三六九並諸芸番組」の内容である。「三六九並諸芸番組」とは今で言う学事奨励会の番組のようなものである。 この中で「十三歩」「壱百0八歩」「ちしょうきん」などの型や「唐手」「交手」などが演じられており、この頃すでに剛柔流の基礎が確立されていたことがわかる。 「藤牌」「鉄尺」「棒」「車棒」などの演目もあり、古武術もすでにポピュラーな身近な武術として習練されていたようである。 これらの武術の使い手は眞栄里筑登之親雲上や新垣通事親雲上、富村筑登之親雲上など久米村の士族であり、東恩納寛量(1853〜1915)の師匠格の人々である。 後に空手は剛柔流へと受け継がれていくことになる。 東恩納寛量は新垣世璋に17歳の頃から師事し、その後1874年福州へ渡り約3年間空手の研鑽に務めた。 寛量は帰沖後精力的に弟子の育成に努め、義村朝義、宮城長順、許田重発等が指導を受けている。 宮城長順(1888〜1953)は14歳から東恩納寛量に師事し、那覇手の薫陶を受けた。しかし、武術に対する情熱は熱烈なものがあり、1915年、1936年の二度福州に渡り研鑽を深めている。 宮城は多くの優れた弟子を育成したが、その高弟の新里仁安が1929年(昭和4)明治神宮の奉納演武に出場した際、流派名を聞かれ、帰沖後師匠の宮城に話したところ、宮城は「拳法八句」から「法剛柔呑吐」を引用して命名したという。 1930年(昭和5)のことである。剛柔流は鍛錬具(巻わら、鎚石、石錠、金剛圏、擔、握かめ、鉄亜鈴、籐、吊り巻わら、砂箱など)を使用しての鍛錬、相対しての「カキエー」、「サンチン」の型をとおしての鍛錬など系統だった鍛錬法が完成されている。 技法の特徴は「音声をともなう呼吸法にあり、気息の呑吐と力の抜き入れの作用が大きい」と言われている。 型には基本型として三戦(サンチン)、開手型として撃砕(ゲキサイ)一・二、砕破(サイファ)、制引戦(セイユンチン)、四向戦(シソウチン)、三十六手(サンセイルウ)、十八手(セイパイ)、久留頓破(クルルンファ)、十三手(セイサン)壱百零八手(スーパーリンペー)、閉手型として転掌(テンショウ)がある。 剛柔流は1930年代には関西を中心に広まり、宮城は1936年(昭和11)1月28日、堺筋明治商店四階講堂において「唐手道に就いて」の講演及び実演を行っている。1934年(昭和9)4月「ハワイ洋国時報社」より招聘され、1935年2月まで指導を行った。 このように剛柔流は日本国内だけでなく海外への普及も早くから開始されている。
参考文献:沖縄空手の定本(津波清著・NPO法人沖縄空手道・古武道支援センター発注)

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